第016回 貴族による政治、文化。( 摂関政治と国風文化 )

900~1200年代の出来事です。
 
ポイント:貴族の政治、文化を学びましょう。
 
その1 摂関政治ってなんでしょうか。
 
平安時代は400年間続きました。そして、なかでも藤原氏の栄華について覚えておきましょう。
 
なぜ、栄華を誇ることが藤原氏はできたのでしょうか。
 
その答えは、娘をきさきにして天皇と外戚関係を結んだことにあるのです。
 
では、藤原氏のプロフィールです。
 
奈良~平安時代、朝廷で権力をにぎりました。中臣鎌足(藤原鎌足)、覚えていますか。
 
彼が天智天皇から藤原という姓をもらったのがはじまりとされています。
 
鎌足の子である藤原不比等(ふじわらのふひと)は、
 
律令制度を確立しました。そして、娘を天皇と結婚させ、光明皇后となりました。
 
もちろん、子どももできます。
 
そのできた4人の子どもたちは、高い役職につかせて、藤原氏の勢力を伸ばしたのが、
 
藤原氏の栄華のはじまりです。
 
9世紀後半には、藤原氏は摂政、関白の職を独占し、
 
11世紀前半には、藤原道長のとき、最高潮に達しました。
 
では、藤原氏の衰退はというと…
 
藤原氏と外戚関係のない天皇が即位しだして、
 
院政がはじまったころからです。
 
このころ、平氏や源氏の勢力が伸び始めました。
 
そうです、質素な武士の時代の到来です。
 
いままでは、きらびやかな貴族の時代でしたから。
 
さて、話をもどしましょう。
 
摂政:天皇が幼いとき、天皇を補佐する役職
 
関白:天皇が成長したとき、天皇を補佐する役職
 
摂関政治:摂政や関白が中心となって動かした政治のこと
 
地方の国司の人事など、いろいろ仕事がありました。
 
10世紀(901~1000年ですよ)の地方政治はどうだったのでしょうか。
 
乱れていました。
 
任地に行くのは代理、増収するにはどうしたらいいかだけを考え、
 
地方政治が混乱しはじめたのです。
 
11世紀前半、藤原道長、藤原頼道の時代、
 
最も藤原氏が栄えた時代です。
 
そのとき、地方では政治が乱れていて…
 
国司は藤原氏におくり物をして、しかも、藤原氏は私腹を肥やし、
 
広大な荘園まで持つようになっていったのです。
 
ここで、藤原道長のプロフィールです。
 
平安時代中期の貴族です。右大臣、左大臣を務めました。
 
4人の娘、教科書の系図にあります。
 
この彰子、妍子、威子、嬉子の4人が
 
一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇のきさきになっています。
 
天皇と外戚関係を結んで、政治権力をにぎったのです。
 
先ほどにも書きましたが、藤原鎌足からはじまっていたことです。
 
1016年に、藤原道長は摂政になり、栄華を極めました。
 
『この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることも 無しと思えば』
 
この歌は有名ですよね。この意味を覚えておきましょう。
 
2 この時代の文化:国風文化とは、どんな文化だったのでしょうか。
 
国風文化は、平安時代の中ごろに栄えました。
 
菅原道真が894年に遣唐使を廃止することを朝廷に進言し認められましたね。
 
そうすると、貴族たちは、それまでの唐風の文化をもとにして、
 
日本の風土や生活、日本人の感情にあった文化を生み出したのです。
 
これが、国風文化の特色です。摂関政治のころに最も栄えた文化です。
 
仮名文字が発明され和歌がさかんにつくられるようになりました。
 
仮名文字:漢字を変形させ、日本語の発音を表記できるようにした文字
 
仮名文字は、人々の感情を書き表すことができます。
 
たとえば…
 
古今和歌集:紀貫之が編集
 
そして、女流文学も栄えました。そう、紫式部、清少納言。
 
代表的な作品として、
 
源氏物語:紫式部
枕草子:清少納言
 
男性が書いたのに女性が書いたことにした
 
紀貫之の土佐日記
 
これも代表的な作品です。でも、なぜ、女性が書いたことにしたかったんでしょうね。
 
仮名文字をつかって、人々の感情を表せたかったのでしょうか。
 
ちなみに絵画では、大和絵の画風が確立しました。
 
大和絵は日本の自然や風俗を描いた絵です。
 
この『大和絵』は、日本画のもとになったのです。
 
『源氏物語絵巻』、『阿弥陀来迎図』は、有名な作品の一つです。
 
この『国風文化』は、藤原氏全盛期に栄えたので『藤原文化』とも呼ばれています。
 
この『国風文化』は、平安京の貴族の間で広まりました。
 
貴族はどのような格好をしていたのでしょうか。
 
女性:女房装束(十二単です。重さなんと16kg、重いですよ)
 
男性:衣冠束帯
 
では、貴族の住まいはどうだったでしょうか。
 
寝殿造り:寝殿と対を渡殿(わたどの:廊下)で結んだつくり
 
でした。
 
3 このころの信仰:浄土信仰
 
貴族たちの不安でいっぱいでした。
 
中国から伝わった『陰陽道(おんみょうどう)』もその表れです。
 
暦や占いで凶か吉を判断するのです。平安時代に大流しました。
 
というのも医学や科学が発達しなかったこの時代、
 
この『陰陽道(おんみょうどう)』にすがるしかなかったのです。
 
朝廷には、陰陽寮という役所までありました。
 
その昔、政治は占いで行われたって聞いたことがありますよね。
 
その役所では、陰陽師という人が働いていたんです。
 
安倍晴明(あべせいめい)は政治的にも影響力のあった陰陽師です。
 
というわけで、そんな不安がいっぱいの世に生きている貴族たち。
 
幸福と社会の安定を求めようと思うのは自然の成り行きです。
 
このころにあった、天台宗、真言宗の祈とうにもたよったのです。
 
10世紀半ば:
 
念仏を唱え阿弥陀如来にすがり、死後には極楽浄土へ生まれ変わろう!
 
こういった考えが起こったのです。これを『浄土信仰』といいます。
 
11世紀:
 
地方にも『浄土信仰』は広まっていきました。その代表的な阿弥陀堂は、
 
平等院鳳凰堂(宇治:京都府)です。
 
ところで極楽浄土ってなんでしょうか。
 
阿弥陀如来がいる、苦しみの世界です。
 
それでは、ここで問題です。
 
藤原氏の勢力が拡大した理由を答えましょう。
 
プリントにも書きましたが…
 
藤原氏は、藤原鎌足から始まっていますね。
 
そう、彼から、自分の娘を天皇のきさきにしたんです。
 
12人の藤原氏の娘が天皇家にとついでいます。
 
その子を時期天皇にしたて、摂政・関白という地位に藤原氏はついたのです。
 
高い地位ですよね。もちろん、政治に影響力を持つことができ、
 
藤原氏の年収は、当時6436石(約5億2130万円)と言われています。
 
しかも、まだこれに国司からの贈り物や副収入として、
 
4万1616石(約33億7090万円)もあったそうです。
 
あれ、副収入のほうが多いですね。これらは、租・調・庸などによる収入です。
 
ものすごい額ですね。
 
もちろん、藤原氏の全盛は、藤原道長、頼道の時代です。
   
今日は、この辺でおしまいにします。
 

 


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